大好きな祖母が亡くなった。いろいろ病気はあったけど、大きく言えば老衰だ。祖母と呼ぶとなんだか他人のような気がするので、ばあちゃんと呼ぶけれど、実家の隣の家に住んでいたばあちゃんは、小さい頃から私を本当に可愛がってくれた。
思春期を複雑な思いで過ごした私は辛いことがあるといつもばあちゃんの家に逃げ込んでいた。その度にばあちゃんは奥の部屋から「母ちゃんには内緒だぞ」とカップラーメンを出してくれ、そのラーメンが何より美味しかった。実際の味は大したことなかったはずだ。ばあちゃんがお湯を注いでくれ、ばあちゃんの家で食べるラーメンが美味しかっだのだ。
18歳で家を出てからも、ばあちゃんは帰るたびに私を子供の頃と同じように扱った。いつも奥にはカップラーメンが置いてあり、1年半前に帰った時も36歳の私に「きよ、カップラーメンたべっか?」と言った。さすがにもうもらわなかったけど、めったに帰らないのに私のために奥の部屋にいつも用意してくれたのだろうかと不思議になった。
福島出身の親に育てられたばあちゃんは、福島に住んだことも無いのに福島弁だった。どんな意味かはわからないが、私のことをしばしばデゴ野郎と呼んで笑っていた。
ばあちゃんの全てが好きだった。元気で丈夫で心配性なばあちゃん。私がちょっと風邪をひいただけで仏壇に祈るばあちゃん。ぜったいに弱音を吐かない我慢強いばあちゃん。
一週間前に「もう長く無いから会ってやってくれ。キヨに会いたがっている」と母から電話をもらい、すぐに会いに行った。病室には別人のようにやせ細り、喋るのもやっと状態のばあちゃんがいた。1年半前にカップラーメンを奥から持ってこようとしてくれたばあちゃんはそこにはいなかった。
「遠くからわざわざすまんかったな。」「いつ北海道に来る?」。消えそうな声で顔を見て話してくれた。できればずっとそばにいて、看取ってあげたかった。しかし、ずっといることも出来なかったので、最後の日に出来るだけそばにいようと、飛行機の時間ぎりぎりまで、二人きりで静かに手を握って過ごした。何も無い病室の壁に、ばあちゃんが一番会いたがっていた飼い猫のちび太の写真をたくさん貼ってあげた。
まともに喋れなくなったばあちゃんだったけど、行かなきゃいけない時間に立ち上がると「いくか?」と私の目を見てはっきりしゃべって驚いた。「また来るよ。また会おうね、ばあちゃん」と言って病室を出た。嘘ではなかった。もうすぐ北海道に引っ越して来る。その時、すぐにばあちゃんに会いに来る。また会えるはずだ…。そう自分に言い聞かせ病室から出ていく私に、ばあちゃんは一生懸命小さく手をふっくれた。
それが最後になった。
その約一週間後、ばあちゃんは静かに息を引き取った。こんなにすぐ北見にまた来ることになるとは。でも、うすうす覚悟はしていた。先週、病室で二人で手を握って過ごした2時間。ほとんど会話はなかったけれど、手を握ってまだそこにばあちゃんが存在していることのありがたさに感謝した。でも、朽ち果てようとしている肉体に、ぎりぎり魂がくっついている感じがして辛そうだった。
きっと、お別れするために頑張ってくれたんだと思う。最後に私にはっきりと言った「行くか」と言う声にはそんな強さを感じた。
お葬式では涙が出たけれど、先週沢山涙を流したので、不思議と出て来る涙が少なかった。北海道移住はばあちゃんが生きてるうちには叶わなかったけど、あの2時間はきっと一生忘れることのない、大切な時間だったと思う。戦前生まれのばあちゃん。精一杯生き、そして精一杯お別れをして旅立って行った。
きっと、大分先にはなってしまうけど、また会えるってのも嘘じゃ無いと思うことにする。ばあちゃん、本当にありがとう。
その後、ばあちゃんが最後まで可愛がっていた猫のチビ太も他界しました。正確な年齢はわからないけれど、おそらく20歳近かったのではないだろうか。ばあちゃんと同じで大往生。あちらで最愛のばあちゃんにも、じいちゃんにも会えていることでしょう。
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